アルベール・カルメットは1863年にフランスのニースで生まれました。1881年に医師として海軍に尽くすため、海軍医学校に入学しました。1883年、香港に着任、マラリアを調査し、それを主題に博士号を得ました。西アフリカのガボン、仏領コンゴではマラリア、アフリカ睡眠病、ペラグラの研究を行いました。1890年、フランスに戻りパスツールや彼の細菌学の師であるエミール・ルーと出会い、パスツール研究所に加わり、サイゴン(仏領インドシナ)に渡ります。免疫学と関連のある蛇毒や蜂毒、植物の毒を調査し、毒物学の初期分野に尽くしました。彼はまた天然痘や狂犬病ワクチン、コレラ、アヘンや米の発酵についても研究しています。1894年に再びフランスに戻り、最初の蛇毒抗血清の開発や、ペストの調査などにも加わっています。1895年、ルーの任命によってパスツール研究所リール支部所長となり、結核診療所や北部抗結核協会を設立、1918年にはパリ研究所の副所長となりました。
カミーユ・ゲランは1872年フランスのポワティエに生まれました。彼の父は1882年に結核で亡くなりました。その後、母が獣医と再婚したことが後の彼に大きな影響を与えます。1891年、有名なメゾン・アルフォール獣医学校に入学しました。学生時代、彼は家畜の病理学や細菌学について、エドモン・イシドールから強い影響を受けます。1897年、彼はパスツール研究所リール支部に加わり、カルメットが進める蛇毒抗血清の開発において、ウマや多くの毒蛇を飼育しながらカルメットの研究の準備を担当する技術者として働き始めました。ここからワクチン研究に専念することになります。
カルメットとゲランの名を世界的に不滅のものとした重要な仕事は抗結核ワクチンの開発です。1906年、彼らは抗結核ワクチンを開発することを決定します。同年、ゲランは結核に対する抵抗性と、血液中の生きた結核菌が存在することとの関連性を示しました。そして、1908年、カルメットは胆汁を含む培地で発育した菌は病原性が低下すると結論付けました。その後、1908年から1921年までの13年間にわたる歴史的な研究が始まります。彼らはウシ型結核菌の病原性を無くすべく、何度も何度も培養と植え継ぎを繰り返しました。そして1921年、ついにヒトに対する病原性がなく、抗体を産生させることのできるワクチン菌株ができました。最初のワクチンはパリにあるシャリテ病院において新生児に使われ成功しました。
しかし、1930年、ワクチンプログラムは恐ろしい事件を引き起こします。リューバックの失敗と言われる事件です。リューバックでワクチンを接種した子供259人のうち73人が2月下旬から4月上旬にかけて結核で死亡したのです。この事件はドイツの細菌学者らによって調査され、ワクチンとして使われた菌が病原性のないものだけではない状態になっていたことが証明されました。その後ワクチンは純化され、1932年に安全性が認められました。
このようにして開発されたBCG(Bacillus Calmette Guerin:カルメットとゲランの細菌)ワクチンは開発されたフランスをはじめ、日本やロシア、中国、イギリス、カナダ、アメリカ他、多くの国々で使われています。
その後、カルメットはリューバックの失敗で非常に苦しみ、事件が解決した後に復帰しましたが、1年後の1933年、パリで亡くなりました。ゲランはその後、さまざまな役職を歴任し、1961年、老衰のためパリのパスツール病院で亡くなりました。