ここ数年「龍馬伝」「坂の上の雲」など、幕末動乱期、明治維新頃の出来事がドラマ化され、改めて当時の人々の一生について思いをはせる人も多いはずだ。一方でこの時期、活躍の華々しさとは対照的に、非衛生的な生活環境の下、多くの志士達が結核で倒れた。
奇兵隊を組織し、倒幕への大きな原動力になった長州藩を率いた
高杉晋作は、第二次長州征伐の際にはすでに結核に侵され、作戦会議は彼の病床近くで行われたといわれる。その後高杉は明治維新を見ることなく、大政奉還の半年前、27 歳の若さで死去した。同じ長州藩、明治維新の立役者の一人、
木戸孝允もまた結核を患い、岩倉使節団としてアメリカ、ヨーロッパを周遊時、スイスで療養している。その際、のちに同志社大学を創設する
新島襄と交流があったが、彼もまた結核患者の一人だった。
幕府軍側においても、新撰組の
沖田総司が結核を患っていたといわれる。幕末を題材とした小説や映画では彼を悲劇の天才剣士として描くことが多く、派手に喀血する姿がドラマチックな演出の道具として使われているようだが、実際の姿は、想像するしかない。
維新後、日清、日露戦争と日本が大国に挑む中、戦後処理を担った2 人の外務大臣、
陸奥宗光と
小村寿太郎もまた結核を患っていた。陸奥は日清戦争戦勝後の下関条約締結に対応し、ロシア、ドイツ、フランスのいわゆる三国干渉の際は肺結核の療養中であり、これもまた病床において閣議が行われたといわれる。
小村寿太郎は日露講和条約調印に力を注いだ後、結核療養のために滞在していた葉山町の別荘で死去した。
過去には国民病といわれたほど多くの人の命を奪った感染症の代表格、結核であるが、幕末の志士、維新の先達も例外ではなかった。日本が大きく変わろうとしていた激動の時代、残り少ない命を意識しながらも、最後までやるべきことに集中していた彼らの様が思い浮かぶ。
(文責:日本BD 瀬野 誠)