30歳を前に感染症専門医療を志し、その後に戦場兵士の敗血症・ガス壊疽対策を研究
アレクサンダー・フレミングは1881年にスコットランドの小作農の8人兄弟の末っ子として生まれました。学校では利発な少年として知られており、14歳の時、兄が眼科を開業しているロンドンに移住して工芸学校に入学。独立心の強かったフレミングは卒業後16歳で商船会社に事務員として就職し、20歳まで勤務しましたが、仕事には満足できず、眼科医の兄に相談し、医学の道を志しました。利発なフレミングは苦もなくロンドン大学付属セントメアリー病院医学部に入学し、卒業後は同院のアルムロス・ライト博士の細菌学研究所に勤務しました。ライト博士との出会いと細菌学研究所での勤務が、その後のフレミングの人生に大きく影響を及ぼしました。研究所での勤務のかたわらニキビの研究を始め、医学部の学生時代からの友人であり同僚であったパネット博士と共同でウェストエンドに診療所を開き、感染症の専門医療を行うようになりました。
33歳の時に勃発した第一次世界大戦中にライト博士が陸軍医療部の大佐に任命されると、フレミングも博士とともに渡仏。負傷兵の治療に従事し、兵士の敗血症とガス壊疽の診療と研究に携わりました。フレミングは第一次世界大戦中に大きな威力を持つ兵器が登場したことで、負傷兵の患部から着衣の切れ端が多く取り出されるようになったことに着目。敗血症やガス壊疽の原因菌が着衣に多く付着していることを見いだしました。
37歳で帰国してセントメアリー病院の細菌学の助教授に任命され、その後渡米。陸軍医療部のクレメンジャー博士とともにインフルエンザの研究も行いました。
ペニシリン発見後も実用化は進まず。ようやく第二次大戦前に大量生産可能に
47歳でロンドン大学の細菌学教授に任命された年、シャーレに落ちたアオカビ(
Penicillium notatum)が周囲の細菌を殺すのを発見し、ペニシリンの研究を始めました。48歳で研究を発表しましたが、その後しばらくはサルファ剤を研究していました。ペニシリンが扱いにくく、不安定ですぐに壊れてしまうために、長い待機の時代に入ったのです。
イギリスがドイツに宣戦布告した1939年にフレミングはロンドンを中心とする地区の医療責任者となりました。一方、この年にフロリーとチェインがペニシリンの研究を始め、翌1940年に実験結果について論文を発表しました。この論文こそペニシリンが抗微生物薬として誕生した歴史的な瞬間でした。フロリーとチェインはペニシリンをエーテルに溶かし、酸を加えることで安定した化合物であるペニシリン塩を作り出すことに成功したのです。これを知ったフレミングは、戦時下の医療責任者として移動を重ねながらも二人の研究に協力しました。
翌1941年、フレミング60歳の時、ついに人にテストできる量のペニシリンが確保されました。フロリーが手遅れと思われていた敗血症患者にペニシリンを投与し、回復させることに成功。フレミング自身が初めてペニシリンによる治療を成功させたのは61歳の時でした。その後、ペニシリンの大量生産が始まると、フレミングもペニシリンの研究をしている病院や生産工場に出向いて助言しました。
1944年のノルマンディー上陸大作戦の時点では、ペニシリン投与患者の95%は負傷から回復できると報告されるまでになりました。また、第一次世界大戦では肺炎にかかった兵士の5人に1人が死亡したが、第二次世界大戦では100人に1人が死亡したのみという報告もあります。
ペニシリンは奇跡の薬と言われ、フレミングは「存命中に歴史に名をとどめた」と称されました。62歳で王立学士委員会に選ばれ、翌年にはナイトの称号が授与されました。海外の大学からも名誉学位の数々が与えられました。64歳でフロリー、チェインとともにノーベル生理学・医学賞を受賞したフレミングは、興味深いことに受賞講演で薬剤耐性菌の出現を予言しています。フレミングは晩年になっても故郷とロンドンを往復しながら研究を続け、多くの論文を発表。1955年3月11日に73歳でロンドンの自宅にて逝去しました。
(文責:日本BD 南澤 仁志)