医学への道
野口英世は、1876年(明治9年)福島県猪苗代湖畔の寒村に生まれ、1歳半の時に囲炉裏で大火傷を負って左手が不自由となり、農作業は難しいと考えた母が、学問の力で身を立てるように諭したことで勉学に身を投じました。素晴らしい成績を修めた清作(改名前の名前)は、温習科生に在籍中の1888年(明治21年)に小林栄先生により才を見出され、小林先生の指導により高等小学校への進学を果たしました。
高等小学校でも優秀な成績を修めた清作は、小林先生や校長先生、級友の援助によって、医師・渡辺鼎による手術を受け、不自由ながらも左手の指が使えるようになりました。この手術の成功に感激した英世は、医師を目指すことを決意しました。渡辺の下で医学を学び、さらに独学で英、独、仏語を身につけて上京し、医術前期試験に合格しました。
上京後は血脇守之助の厚意で高山歯科医学院の学僕となり、勉強の面倒を見てもらいました。普通は7年を要する医術開業後期試験を1年で突破し、清作は20歳で医師の資格を得ました。
1900年(明治33年)、米国に渡った英世は、ペンシルベニア大学でフレクスナー博士より蛇毒の研究を与えられ、研究の成功によりロックフェラー医学研究所に迎えられました。その後、中南米やアフリカなど世界各地で、蛇毒をはじめ黄熱病など、未知の病気の研究に取り組みました。数々の成果を上げ、人類に大きく貢献すると共に、ノーベル医学賞候補に3度も名前が載るほどの世界的な医学者となりました。
1928年(昭和3年)、51歳の時に、西アフリカで黄熱病の研究を続ける中で病に倒れ、その短い生涯を閉じました。
医学の進歩の中で
医学の進歩の中で野口英世の学問的業績を振り返ると、決して安易ではありませんでした。それは英世が微生物学・細菌学の研究者だったためです。この分野は19世紀にパスツールやコッホによって開拓され、方法が確立されました。その後に続く研究者は、確立された方法に従って光学顕微鏡の下で病原菌をとらえようと競い合い、日本でも北里柴三郎や志賀潔が国際的な名声を上げていました。
ところが英世は少し遅れて研究者となったために、主な病原菌で発見されやすいものはあらかた発見され尽くされ、難しいものばかりが未解決として残されている状態でした。この難関を突破しようとしゃにむに人に倍する努力を続けたのが、研究者としての英世の生涯でした。
英世はあらゆるテクニックを駆使し、「実験マシーン」「日本人は睡眠をとらない」と揶揄されるほど人に倍する努力を続け、小児麻痺や狂犬病、トラコーマや黄熱病の病原体の発見に邁進し、一番乗りを果たす野心に燃えて、これらの病原体の発見の報告を出しました。
当時の微生物学、細菌学は、人類を悪疫から救うための学問として人々から最も期待されるもののひとつであり、英世が1918年にエクアドルで黄熱病の菌を発見したとの発表は世界のトップ・ニュースとなり、一躍世界的英雄になりました。しかし、英世の報告は間違いであり、現在、それらの病原体は光学顕微鏡では見ることのできないウイルスであることがわかっています。当時としては、病原体は顕微鏡の下で発見、同定すべきものと考えられ、それ以外の方法は考えられなかったための結果でした。
医学の進歩として、皮肉にも英世の死後すぐにウイルス病研究の方法が編み出され、また、光学顕微鏡に代わって電子顕微鏡が登場したことによって、研究のスタイルや方法が一変しました。今日では、残念ながら英世が残した大量の研究論文を読む人はいません。英世の悲劇は、やや遅れてやってきたことに尽きます。しかし、東洋人として初めて米国の地にあって科学者として名をなし、一時は世界的な英雄とまでいわれた英世の存在は、今も後に続く東洋人の科学者たちを鼓舞し続けています。
(文責:日本BD 南澤 仁志)