ナイチンゲールの足跡(1)
1853年、初めて看護に携わったナイチンゲールは、家柄と実力でいきなり看護監督、つまり現代的に表現すれば、総師長に着任します。そこで彼女は、優れた看護管理者として実積を示し、自ら範となるような看護管理を実現させました。
続いて、彼女は看護管理者としてロンドンの病院に無給で就職します。数少ない理解者の父から生活費の援助を受けましたが、母や姉とは険悪になりました。当時のイギリスでは、看護婦は病人の世話をする単なる召使とされ、専門知識が必要ない職業と考えられていたのです。彼女は国内各地の病院の状況を調べ、専門教育を施した看護婦の必要性を訴えました。
1854年、ナイチンゲールはクリミア戦争の後方基地のスワタリに向かいました。戦地の病院は極めて不衛生で、必要な物資が供給されていませんでした。さらに、現地の軍医長官は看護婦団の従軍を拒否したのです。そこで彼女は病院の便所掃除がどの部署の管轄にもなっていないことに注目し、便所掃除をはじめることによって病院内に入り込んでいきました。
困難な状況でしたが、味方がいないわけではありませんでした。ビクトリア女王が戦時大臣に対し、ナイチンゲールからの報告を直接女王に届けるよう命じたのです。看護婦団と傷病兵らは元気付けられ、対抗勢力には無言の圧力となりました。彼女たちは病院の衛生環境を改善し、死亡率を下げてみせました。この時ナイチンゲールは、チームの取り組みを軍首脳部に納得させるために独自の統計グラフを使用しました。これは当時としては非常に独創的なもので、彼女は考案者として後に英国統計学会の会員になり、米国統計学会の名誉会員にもなっています。